この章の「無外流の研究」では、辻月丹の残した伝書を元に研究した成果の一端を記していきます。
無外流剣術には姫路藩の高橋家に伝わるに刃引之形5本が残されております。また、本来の剣術形でとしての十剣秘訣は、伝書として残っていますが、詳しい動きについての記載はありません。
しかし、その伝書を詳しく紐解くことと、様々な資料により辻月丹の残そうとした思い(メッセージ)を「形」という姿にして稽古の元にしてゆくことが研究の目的です。
無外流を興した辻月丹は、慶安元年(1648年)近江甲賀郡(滋賀県)の郷士の次男として生まれ、万治三年(1660年)月丹十三歳の年、京都に道場を構える山口流剣術の門を叩いた。山口卜真斎に学ぶこと十三年。皆伝を許されたのは、延宝二年(1674年)月丹二十六歳のときであった。その後、麹町に道場を構えるにいたった。
剣技を追求する月丹の身形体裁は粗末であったようだが、愛宕山において荒行を経て心身を鍛錬した気迫は、相当のものがあったのだろう。エピソードが現在でも幾つか残っている。
また、「剣禅一如」の道を目指し麻布の吸江寺に参禅すると、石潭禅師を師として、日夜己の剣境を模索するようになった。また、石潭禅師が後を託した神州禅師より偈(げ)を得た。
四代の記摩多茂幸を記摩多資幸、五代の文左衛門賢信を文左衛門資信としているところもありますが、この系譜では、土佐山内家宝物資料館に残る無外流真傅剣法訣の標記を尊重しました。
上記の系譜の通り幕末まで無外流は江戸の地で続きましたが、この系統の幕末の資料は乏しい反面、それを埋めるように五代目の文左衛門賢信の弟子であった姫路藩の高橋八助充亮と土佐藩の土方平三郎がそれぞれ自藩に伝えた無外流は明治以降も伝承されたせいか、比較的資料が残っています。
その中でも今日の無外流に大きな影響を与える高橋赳太郎がいます。彼は姫路藩に安政6年(1859年)に生まれ、明治時代に警視庁の撃剣世話掛や後年神戸に戻り神戸警察署の剣術教師や巡査教習所の撃剣教授を兼任するなど生涯剣の世界に生きた剣聖です。現在では姫路の無外流も絶えてしまいましたが、子の秀三によって剣術と居合形が映像として残されているのは幸いです。また、高橋赳太郎の弟子の一人である中川士龍が昭和30年頃に創始したのが、無外流居合兵道(無外眞傳無外流居合兵道)ですが、無外流居合兵道は無外流そのものではありません。これは中川士龍が無外流第十一代と名乗ったため、そうした誤解が生まれたかと思います。上記の系譜でも分かる通り中川士龍が無外流第十一代ならば、文左衛門賢信以降の金市郎嘉重、記摩多茂岡、啓作定爲など幕末までの無外流の継承者を蔑ろにするものでありますし、高橋赳太郎の後を継いだ高橋秀三などの真の無外流継承者を無視することにもなってしまいます。そもそも高橋赳太郎自身が無外流第十代と自称していた記実はどこにもありませんので、高橋赳太郎の死後中川士龍が何らかの意図で無外流第十一代を標榜したのでしょう。
しかし、失伝した無外流であっても全てが失われたわけではありません。ちなみに月丹の師の山口朴真斎は鹿島神道流を修めた後、阿波賀流、新陰流を学び山口流を創始しましたので、元となる剣技はここから想像することができます。また、口伝はありませんが、無外流真傅剣法訣、無外真傅目録などの伝書からも月丹の伝えようとしているこころを垣間みることもできます。
文責:関戸光賀
無外流については小説「剣客商売」や映画「雨あがる」などでご存知の方もいらっしゃるかと思います。小笠原佐渡守長重、酒井雅楽頭忠拳、山内豊房など錚々たる大名、小名三十数名の他、直参百五十余、陪臣九百数十名もの門人を数えたことから、有力道場であったことが偲ばれます。
当初、剣術だけであった無外流は、自鏡流居合(多賀自鏡軒盛政が祖)より居合を取り入れたのが、無外流居合の始まりです。従って無外流居合は正確には自鏡流居合ですが、無外流剣術の指南役が指導するため、一般に無外流居合と称していました。 その後自鏡流居合は六代で後継者が絶えたため、自鏡流居合は無外流の中で受け継がれてゆきました。
明治の時代、東京では無外流は途絶えてしまいましたが、姫路藩士の高橋八助充亮と高橋達蔵充玄が江戸において都司文左衛門に無外流を学び、姫路藩へと伝わったものが無外流高橋派として残り、明治の時代には高橋赳太郎へと継がれていきました。赳太郎は、警視庁の撃剣世話掛となり、高野佐三郎、川崎善三郎とともに「三郎三傑」と称されていました。その後赳太郎は神戸に戻り道場を開き、そこで指導する傍ら、周辺の警察署や神戸高等商業学校(神戸大学の前身)撃剣部(剣道部)の指導を行っていました。
赳太郎の死後、神戸において赳太郎の子である高橋秀三が無外流を継承しました。
後年、高橋赳太郎の元で学んだ中川士龍が「無外流居合兵道」を創始し、近年それが無外流そのものと誤解されるようなことがありますが、これは間違いです。
「無外流居合兵道」は昭和まで残った浅山一伝流、田宮流などいくつかの古流の形をもとに編纂されたもので、そうしたことでは古流の居合の香りする素晴らしい流派です。
居想会は居想無外流を稽古する会です。
無外流は江戸時代に辻月丹の興した剣術の流派ですが、この時代には剣術の流派だけで700あったともいわれています。多くの門人がいた無外流もこの一つですが時代の流れの中、江戸から東京に変わる頃本流の江戸での無外流は失伝しました。
しかし姫路藩と土佐藩の無外流は昭和になっても引き継がれ、姫路藩の高橋赳太郎の門下であった中川士龍が居合形として無外流居合兵道を興しました。ただし、これは無外流そのものではありません。
居想会では居合と剣法の稽古をおこなっており、居合は前述した無外流居合兵道を元に無外流と併伝して稽古されていたとされる自鏡流の居合を織り交ぜ形を形成しています。
剣法では、伝書として残る無外流真傅剣法訣を柱に居想会独自の剣法形を稽古しています。
無外流真傅剣法訣の序文には「形だけを会得したものは、術の門前から中に入る事ができず、精神を会得したものは大きく飛躍する」と説く一節があります。これは松尾芭蕉の言う「古人の跡を求めず、古人の求めしところを求めよ」という言葉に通じることだと思います。伝えるものとしての形は確かに有効な伝承ツールですが、ただ形をなぞっていただけでは形骸化してしまうという危うさもあることを自覚しなければいけません。
古人が武術に何を求め、そして自身を高めていこうとしたのか知るために、形に秘めた先人の思いを感じ取ることを稽古の目標とするべきでしょう。
伝統は、工芸や建築そして芸術においても一度失伝してしまうとそれを復刻することは至難の技です。
居想会も無外流の復刻に向けてさらに努力を重ねなければなりませんが、同時にそれを引き継いでゆく若い世代を大切に育ててゆくことにも大切です。学んだことをこれからの人に正しく返してゆく、そうして形は伝承されてゆくのですか
居想無外流とは、途絶えてしまった無外流を再編、研究する目的で作られた流派です。
居想無外流は、失われた形の術理を創意と工夫により再現し、先人が死生観として導きだした万法帰一の心と業を求め追求してゆくことを活動の原点としており、現在の稽古においては、通常の形稽古の他に、無外流に伝わる「無外流真伝剣法訣」、「刃引きの形」、そして無外流居合の基となった「自鏡流居合」を研究しています。
私達は、江戸時代の武士が残した形について、何を伝えたかったのかを検証し実戦すること、そして、その研究成果を再び途絶えさせることなく正しく伝承していく事が最も大切であると考えています。