無外流の流祖・辻月丹が記した『無外流真傅剣法訣』は、無外流居合の源流ともいえる伝書である。その中に記された「十剣秘訣」は、すべて禅語で構成されており、その意味を深く理解するほどに壮大な世界が広がる。これは剣法のみならず、居合の稽古においても重要な指針となるものである。 しかし、「十剣秘訣」が具体的にどのような形であったのかは、口伝が途絶えた今となっては正確に復元することができない。あるいは、辻月丹自身がこの運命を見越し、あえて図版を残さなかったのかもしれない。形を図にすれば、表面的になぞることはできるが、その本質が抜け落ち、魂のないものとなる危険がある。であれば、形として残すのではなく、禅語として記すことで、より本質を伝えようとしたのではないだろうか。 とはいえ、剣の修行者にとって、「十剣秘訣」の言葉の意味を理解するだけでは修行として不十分である。居合や剣法において、形を繰り返し鍛錬することこそが修行そのものであり、そこにこそ剣の道の崇高さが宿る。それは、禅僧が座禅を重ねることで悟りへと至るのと同じ理である。
ゆえに、我々は「十剣秘訣」の片鱗として残る「刃引之形」や、一刀流をはじめとする古流の動きを研究し、現代的な要素を排除しながら、無外流の再現を試みた。その成果が、次に示すものである。
注釈
禅の発端と云われる釈迦の逸話「世尊拈花」に由来するものでしょうか。
お釈迦様が晩年、霊鷲山の山頂で、無言のまま金波羅華という華を拈って弟子たちに示した。誰もその意味を汲むことはできなかったが、唯一人摩訶迦葉という弟子だけがそれを見て微笑んだ。
それを見たお釈迦様は「我には正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙の教えがある。この言葉でも伝えきれぬ(教外別伝、不立文字)教えを全て、迦葉に伝える事ができた」と云ったという。
この故事の如く定まった型を持たぬ無相の剣の極意は、同じく摩訶迦葉の如く聡明なる者が修行の中でのみ悟り得るものであるという意味でしょうか。
問うて云わく 萬法一に帰す 一何れの処にか帰す
我答えて云わく 青洲に在って一領の布衫を作る
重きこと七斤
「あらゆるものは一に帰するというが 一はどこに帰するのか」と問うと
私( 趙州 )が青洲にいたときに一着の衣を作ったが、その重さは七斤もあったよ
注釈
萬法とは森羅万象のことであり、存在全てということです。その全ては絶対的な本体である一に帰します。この一とは例えて言えば神ということでしょう。その神がなんであるのかというという問いは至極自然なものですが、それに対して「本来軽い布衫(襦袢の類)を作ったところ4.2kgもある重いものだった」という答えはなんとも意味不明で、まさしく禅問答そのものです。
無外流の流祖辻月丹はその後に続く「更に参ぜよ三十年」という言葉を付け加え、更に大きな丸を描きその中に「文字の沙汰にあらず」と書き添えています。これこそが月丹の解釈するところであり、「無外流真傅剣法訣」において最も伝えたかった大切なことなのではないでしょうか。
則ち、無いと思うば有であり、有と思えば空である。そして、有と空とは一つのものであるということが則ち真理であるという事でしょう。居合や剣法の修行において出来たとおもえばそこにて停着し、稽古の意味が失われます。釈迦も達磨も死ぬまでが修行であったでしょうし、それが則ち生きるということなのです。そうした修行に終わりはないし、その循環のなかで得られることこそ悟りの道となり、その世界は文字や言葉では表すことのできない自分だけが持つ悟りの世界なのだと月丹が言っているように私(関戸)には聞こえてきます。