無外流真傅剣法訣/十剣秘訣

無外流真傅剣法訣の解説

無外流の流祖・辻月丹が記した『無外流真傅剣法訣』は、無外流居合の源流ともいえる伝書である。その中に記された「十剣秘訣」は、すべて禅語で構成されており、その意味を深く理解するほどに壮大な世界が広がる。これは剣法のみならず、居合の稽古においても重要な指針となるものである。 しかし、「十剣秘訣」が具体的にどのような形であったのかは、口伝が途絶えた今となっては正確に復元することができない。あるいは、辻月丹自身がこの運命を見越し、あえて図版を残さなかったのかもしれない。形を図にすれば、表面的になぞることはできるが、その本質が抜け落ち、魂のないものとなる危険がある。であれば、形として残すのではなく、禅語として記すことで、より本質を伝えようとしたのではないだろうか。 とはいえ、剣の修行者にとって、「十剣秘訣」の言葉の意味を理解するだけでは修行として不十分である。居合や剣法において、形を繰り返し鍛錬することこそが修行そのものであり、そこにこそ剣の道の崇高さが宿る。それは、禅僧が座禅を重ねることで悟りへと至るのと同じ理である。

ゆえに、我々は「十剣秘訣」の片鱗として残る「刃引之形」や、一刀流をはじめとする古流の動きを研究し、現代的な要素を排除しながら、無外流の再現を試みた。その成果が、次に示すものである。


無外流・十剣秘訣
現代語訳・解説:吉田 啓・関戸光賀
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獅王剣

無外流・獅王剣

飜車刀

無外流・飜車刀

玄夜刀

無外流・玄夜刀

神明剣

無外流・神明剣

虎闌入

無外流・虎闌入

水月感鷹

無外流・水月感鷹

玉簾不断

無外流・玉簾不断

鳥王剣

無外流・鳥王剣

無相剣

無外流・無相剣

注釈

禅の発端と云われる釈迦の逸話「世尊拈花」に由来するものでしょうか。

お釈迦様が晩年、霊鷲山の山頂で、無言のまま金波羅華という華を拈って弟子たちに示した。誰もその意味を汲むことはできなかったが、唯一人摩訶迦葉という弟子だけがそれを見て微笑んだ。

それを見たお釈迦様は「我には正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙の教えがある。この言葉でも伝えきれぬ(教外別伝、不立文字)教えを全て、迦葉に伝える事ができた」と云ったという。

この故事の如く定まった型を持たぬ無相の剣の極意は、同じく摩訶迦葉の如く聡明なる者が修行の中でのみ悟り得るものであるという意味でしょうか。

萬法帰一刀

無外流・萬法帰一刀

禅語としての萬法帰一

問うて曰く、
「萬法一に帰す。一は何れの処にか帰す」
答えて曰く、
「青洲に在って一領の布衫を作る。重きこと七斤」

この問答は「趙州従諗禅師語録」に出てくる有名な公案である。「萬法」とは森羅万象、すなわちあらゆる存在のことであり、それらはすべて絶対的な本体である「一」に帰すとされる。この「一」とは宇宙の根源のようなものである。

では、その宇宙の根源はどこに帰するのか――答えは「布衫(軽い襦袢の類)を作れば七斤(約4.2kg)にもなる」という一見不可解なものだ。これは典型的な禅問答であり、言葉を超えた直観的な智慧を示している。ここから『無外流真傅剣法訣』にある「萬法帰一刀」を考えると、究極の本質は理屈や文字では捉えられず、体験を通じてのみ理解できるということが示唆される。

「萬法帰一刀」には「更に参ぜよ三十年」という言葉がさらに続き、その上で大きな円が描かれ、「文字の沙汰にあらず」と書き添えられている。辻月丹はここで、剣術の極意もまた、理論や文字では完全には伝えられず、長年の修行を通じて体得されることを示しているのである。

禅では「無いと思えば有であり、有と思えば空である。そして、有と空とはもとより一つのものである」と説かれる。
存在と非存在、「ある」と考えることと「ない」と考えることは、究極的には同じ根源から生じる。この意味で、世界は固定されたものではなく、私たちの心との相互作用の中で現れるものだと考えられる。
余談ながら、これは量子物理学における「観測のしかたによって現れる姿が変わる」という現象を想起させる。古来の禅と最先端の量子物理学に共通するところがあるのは、まことに興味深いことである。

剣術の形も同じである。文字や言葉で伝わるのは形の表面だけであり、その奥にある「本質」を体得するには、長年の稽古と実践が必要となる。存在とは固定されたものではなく、私たちが生き、感じ、思索するなかで現れ、消えていく。その流れそのものを体得することこそ、悟りの道であり、剣術の極意でもある。

辻月丹の言う「文字の沙汰にあらず」とは、最終的にその真意は文字ではなく、各人の体験によってのみ得られることを示しているのではないだろうか。
関戸光賀


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